東京大学 物性研究所極限コヒーレント光科学研究センター板谷研究室

研究紹介

はじめに

1990年代以降の高強度レーザー技術の進歩によって、テーブルトップ規模のレーザー装置でテラワット級(1TW=1012 W)の高強度超短パルスレーザーが実現しました。高強度光パルスを集光することによって、きわめて高い光強度での「光と物質の相互作用」に関する研究が可能となり、Strong Field Physics 「強光子場科学」と呼ばれる新しい光科学分野が生まれました。(これを受けて、高強度超短パルスレーザーの基本原理を実証したG. A. MourouとD. Stricklandに2018年ノーベル物理学賞が授与されました。)

非常に強い光の場の中で、物質はきわめて非線形な(すなわち、非摂動論的な)応答を示します。このような物質の「極端な非線形性」は、光電場の時々刻々の変化に対応した応答であるため、光電場の振動の一周期よりも短い時間スケール(=アト秒)での超高速実験手法へと直結しています。2001年には、トンネルイオン化する原子を用いることにより、アト秒光パルス(1アト秒=10<sup>-18</sup> 秒)の発生が実証され、それ以降、「アト秒科学」という研究分野が急速に進展しました。

強光子場・アト秒科学では、高強度レーザーを用いて非常に波長の短いコヒーレントな光を出すことが可能となっています。われわれのグループでは、赤外域で位相制御された高強度極短パルス光源を開発し、光子エネルギー400 eV(波長3.1 nm)を越えるアト秒軟X線パルスが得られています。軟X線は物質との相互作用の強い光であり、物質科学においてとても重要なプローブです。軟X線分光は巨大な放射光施設を用いることによって発展してきましたが、レーザーならではの超高速性と組み合わせることによって、「アト秒軟X線分光」という新手法が生まれつつあります。アト秒軟X線分光では、元素の吸収端の変化を見ることにより、電子状態変化を特定の元素の電子状態と紐付けながら、アト秒という極限的な時間スケールで追跡することができます。このような新しい超高速実験手法は、電荷移動を伴う光触媒や人工光合成の素過程の理解につながるだけでなく、ペタヘルツ領域の次世代エレクトロニクスの基礎となることが期待されています。

板谷研では最近、長波長(赤外~中赤外)での高強度極短パルスレーザーを重点的に開発し、光電場の数周期の振動で構成される高強度中赤外パルスの発生に成功しています。特に、中赤外域光を用いると、固体中に非常に高い電磁場を非破壊的に印加しつつコヒーレントな電子過程を誘起できるため、「光で駆動された新しい物質の電子状態(限界駆動系)」を作ることができます。このような、強い光で制御された非平衡状態では、固体中のバンド構造を反映した高次高調波発生など、ペタヘルツ領域の光学応答がすでに見られており、その統一的理解が大きな課題となっています。このような固体中の超高速応答は、駆動する光電場の一周期よりも早いため、光電場の一周期以下の時間スケールで観測することが重要となります。そこで、物質を駆動する中赤外光の電場の中で何が起こっているかを時々刻々追跡するための、「サブサイクル分光」と呼ばれる新しい超高速分光法の開発が重要となります。固体中の強光子場過程についての実験的な研究はまだ始まったばかりですが、サブサイクル分光により、アト秒科学の研究対象は原子・分子などの孤立量子系から、多様な自由度をもつ固体や凝縮系に広げることが期待されています。

1. 高強度極短パルスレーザーの開発とアト秒パルス発生

TiS-CPA

高強度レーザー光を原子や分子に照射すると、物質の極端な非線形応答によって「高次高調波(High harmonics)」と呼ばれるコヒーレントな短波長光が放出されます。この過程を利用して、コヒーレントな軟X線や、フェムト秒(1fs=10-15 s)からアト秒(1as=10-18 s)の光パルスを発生することが可能となっています。アト秒というきわめて短い時間スケールでは、重い原子核はほとんど動かず、物質(原子、分子、固体)の中の電子の動的過程が主な研究対象となります。光によって励起された物質の状態は基底状態から大きく離れているため、物質科学において未踏の分野です。しかしそのような高い励起状態の物質は、光合成や太陽電池、光触媒などの社会応用上、きわめて重要な化学反応の素過程と直結しています。現在、アト秒領域(不確定性関係で決まるエネルギースケールとしては10 eV以上)の光パルスを操り、様々な利用方法を確立することが求められています。こういった一連の研究は「アト秒光科学」と呼ばれており、超高速光科学の最前線となっています。

2. 原子・分子の強光子場・アト秒科学

アト秒パルス光を用いることによって、原子や分子内での電子ダイナミクスを実時間観測することが可能となります。下図は、直線偏光の強レーザー場中に置かれた水素原子の電子密度分布です(密度汎関数法によるシミュレーション)。わずか数フェムト秒(光電場の振動の数周期)の間に、電子の波が原子の外に現れて、光電場によって加速されていく様子がわかります。このような電子の超高速ダイナミクスは特殊なものではなく、光合成、光触媒、分子の光活性などの基礎的な化学反応において起きていると考えられ、それを実際に観測することが、大きな目標となっています。

Hatom

アト秒科学における基本的な実験手法の一つは、位相制御された光電場で電子の運動を制御し、電子波で対象(原子・分子)をプローブすることです。この場合、観測するのは、散乱・放出された電子やイオン、あるいは、放出された光(高次高調波)となります。われわれは、赤外光で原子・分子がイオン化する際に放出される光電子の運動量分布を測定する実験装置を開発しており、ナノスケールの構造体からの光電子放出や、強光子場中での光電子の弾性散乱に関する研究を行っています。高強度光電場を利用することによって、数フェムト秒というきわめて短い時間スケールで、コヒーレントな電子の波が加速・衝突・散乱を起こすため、原子・分子の超高速構造変化を実験的に観測することが期待されています。

3. 固体の強光子場・アト秒科学(限界駆動系)

可視域での高強度レーザーは、レーザー材料や光学素子が容易に入手できることから、広く普及しています。それに対して、赤外からテラヘルツ領域の高強度レーザー光源の開発は、未踏の分野となっています。特に高強度レーザーの波長が中赤外やテラヘルツ領域になると、レーザー光の光子エネルギーが小さくなります。そのため、イオン化に要する光子数が大きくなる(つまり、多光子イオン化がより高次の摂動となる)ため、イオン化が起こりにくくなります。その結果、固体に対して、非常に高強度の光電場(>10 MV/cm)を非破壊的に加えることが可能となります。また、レーザーパルスの時間幅が、電場の振動の数周期程度まで短くなると、電子なだれ(電子が光電場で加速されて原子に衝突し、つぎつぎと電子を作る過程)が抑制されるため、さらに高い光電場を物質に印加できるようになります。光で駆動された物質中の電子によって、バンド構造中で加速されて双極子放射やバンド間遷移による光放出(固体での高次高調波発生)が起こります。とくに、光の電場が1 eV/Angstromに近くなると、原子核のクーロンポテンシャルによって規定される物質のバンド描像は破綻し、特異な電子状態が現れると考えられています。その電子応答を詳細に観測し、理解することが当面の目標です。既に、固体からの高次高調波発生などの興味深い現象が見いだされています。固体中のこのような電子の非線形応答はユニバーサルな現象であり、長期的にはこれを新しい光技術につなげたいと考えています。

4. 超高速軟X線分光

レーザーを使って得られる短波長光が、極紫外から軟X線に到達しているため、従来放射光でしか出来なかった実験が、レーザーで出来るようになりつつあります。われわれは、レーザーで得られる軟X線パルスを用いることによって、元素選択性の高い超高速軟X線分光を実現することを目指しています。軟X線は、物質との相互作用の強い光であり、元素吸収端を利用することによって特定の元素の電子状態や原子配置の短距離秩序を直接観測することが出来ます。レーザーを用いることによって、フェムト秒からアト秒領域での電子状態の変化が可能になると考えられており、世界各国で応用のための要素技術の開発が進められています。われわれのグループでは、物性研内外のグループとの協力の下で高次高調波の物性応用のための装置開発を進めています。

 

 

 

外部資金の状況

外部資金名研究課題名研究代表者・研究年度
科学研究費補助金 若手研究

「熱揺らぎマグノンダイナミクスの超高速測定手法の開発」

研究代表者 栗原貴之、2021年度~2025年度

科学研究費補助金 研究活動スタート支援

「高強度中赤外電場下におけるスピン依存伝導のサブサイクル分光観測」

研究代表者 栗原貴之、2020年度~2022年度

科学研究費補助金 基盤研究(C)

「運動量イメージング法を用いた軟X線領域でのアト秒ストリーク法の開発」

研究代表者 水野智也、2020年度~2022年度

文科省 光・量子飛躍フラッグシッププログラム (Q-LEAP)

技術領域:次世代レーザー

Flagshipプロジェクト「先端レーザーイノベーション拠点」

「次世代アト秒レーザー光源と先端計測技術の開発(ATTO)」部門

研究代表者 藤井輝夫、部門長 山内薫、2018年度~2027年度

科学研究費補助金 基盤研究(S)

「次世代極短パルスレーザーによるアト秒科学の新展開」

研究代表者 板谷治郎、2018年度~2022年度

科学研究費補助金 基盤研究(A) 「高効率アト秒分光のための次世代高強度レーザーの開発」 研究代表者 板谷治郎、2018年度~2018年度
TIA連携プログラム探索推進事業"かけはし" 「アト秒光電子顕微鏡のための基礎技術と応用に関する調査研究」 研究代表者 板谷治郎、2017年度
科学研究費補助金 若手研究(A) 「数サイクル高強度中赤外電界下の固体の極限応答探索」 研究代表者 石井順久、2017年度~2020年度
科学研究費補助金 挑戦的萌芽研究 「アト秒光電子分光のための超高強度テラヘルツパルス発生」 研究代表者 板谷治郎、2015年度~2016年度
科学研究費補助金 若手研究(B) 「高強度赤外線による軟X線アト秒パルス光発生とその計測」 研究代表者 石井順久、2013年度~2015年度
光・量子融合連携研究開発プログラム 「光・量子科学研究拠点形成に向けた基盤技術開発」 研究代表者 辛埴、2013年度~2017年度
科学研究費補助金 基盤研究(S) 「1keV領域での高次高調波発生とアト秒軟X線分光への展開」 研究代表者 板谷治郎、2011年度~2015年度
JSTさきがけ「光の創成・操作と展開」 「高次高調波のコヒーレンスを利用した分子動画観測」 板谷治郎、2008年度~2011年度
JST振興調整費「卓越した若手研究者の自立促進プログラム」 「極限的な非線形光学の開拓と物質科学研究への応用」 板谷治郎、2008年度~2010年度